劇場版『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』第2部『キルケーの魔女』を観ました。
第一部の公開から時間がたちましたが、ようやく公開です。結論をいうと、かなり見応えはありました。
ただし純粋にモビルスーツが派手に戦うガンダム映画を期待すると、少し物足りないかもしれません。今回の第2部はΞガンダムとライバル機が大暴れする映画というより、ハサウェイ、ギギ、ケネスの関係をじわじわ見せる映画といえます。そこに原作との違いが加わります。
とくに映画版のハサウェイが、劇場版『逆襲のシャア』のあとに何を抱えて生きているのか。そこを表現しようとしていました。
でもハサウェイに共感できるかというと、かなり引っかかります。辛い経験をしたのは分かりますが。でも、だからといって要人暗殺に向かうのか。
そこは別です。
この映画はハサウェイを傷を負った青年として描きなつつ、同時にかなり危ない人物としても描いています。ここをどう受け取るかで感想はかなり変わると思いました。
『キルケーの魔女』はどんな映画?
今作は3部作の第2部にあたります。舞台は宇宙世紀0105年。ハサウェイ・ノアは反連邦政府組織マフティーの指導者として活動し、ケネス・レッグは連邦軍の地球高官として彼を追い詰める。ギギ・アンダルシアはその二人の間で双方を翻弄していきます。
ストーリーの中心はアデレード会議に向かう前の中編です。なので、ここで最終決戦が行われるわけではありません。ハサウェイはすでにΞガンダムを手に入れた段階にいて、ケネスは「キルケー部隊」を率いてマフティー追討を本格化させる。
そこに予知に近い感覚を持つギギが絡んでくる、という人間関係と心理描写に比重を置いた構成になっています。
キルケーの魔女の気になった所
今回もいくつか気になるところがあります。
画面が暗い
前作でも言われましたが戦闘シーンの画面が暗いです。モビルスーツの位置や動きが一度では分かりにくい。正直、画面が見づらいです。
でもこれは意図的なものでしょう。夜間戦闘や低照度の基地襲撃で巨大兵器がくっきりはっきり見える方が不自然ですからね。一般人から見れば戦場なんて光と爆発と影の塊でしかない。リアリティを優先した結果として見づらくなっているのは分かります。
でも迫力はあるけれど、見やすさは犠牲になっている。一長一短です。
説明セリフが少なくて初心者には厳しい
映画はかなり不親切です。ハサウェイがなぜ苦しんでいるのか、ギギがなぜ特別なのか、マフティーの本当の目的は何なのか、言葉での丁寧な説明はありません。
『逆襲のシャア』を観ていない人や、クェスやチェーン、ブライトとハサウェイの関係を知らない人には正直かなり厳しい内容ではないでしょうか。
ただ全部をセリフで説明すると作品が安っぽくなります。初心者向けの入口ではなく、宇宙世紀の歴史を知っている人に向けた作品。そう割り切るべきなのかもしれません。
モビルスーツ戦は少ないが、コックピット視点は良い
アデレード決戦前の中編なので派手なMS戦が何度も繰り返されるわけではありません。戦闘の回数自体は少ないです。
ただし戦闘の密度はとにかく高い。特にコックピット視点の描き方はかなり良かったです。画面表示、警告音、カメラの揺れ、視界の狭さ、機体の速度感。巨大な兵器を操縦しているというより、巨大な兵器の中に押し込められている感覚があります。
ここは前作から続く魅力ですね。
サブタイトル「キルケーの魔女」の意味
サブタイトルにもなってるキルケーとはギリシャ神話の魔女のこと。キルケーは本来は女神に近いものですが男たちを惑わせて理性を失わせる魔女のような存在です。
作品中ではケネスが率いる「キルケー部隊」の名前であると同時に、当然ギギ・アンダルシア自身のことを指しています。
ギギは予知に近い力で基地への攻撃を察知し、敵の位置を言い当てる。ケネスにとっては非常に利用価値のある存在です。ところがギギはケネスの思い通りにはなりません。
ケネスに協力しているようでいて結果的にはハサウェイと合流する方向へ誘導しているようにも見える。不思議な行動が多いです。
ギギがすべてを計算しているとは思いません。でも彼女の発言がケネスとハサウェイの判断を狂わせ、運命を変えているのは確かです。まさに「魔女」ではないでしょうか。
ギギはハサウェイに惹かれているように見えるし、ケネスにも近づく。彼女が誰のために行動しているのかは分かりにくいです。
ギギは自分から戦うわけではないのに近づく男たちの判断を変えてしまう。敵ではないけれど完全な味方とも言い切れない。この中途半端な危うさが今作の面白さですね。
原作との最大の違いはハサウェイの過去
原作小説と映画版ではハサウェイが背負っている傷の内容が違います。
原作小説は富野由悠季監督の小説『ベルトーチカ・チルドレン』の後に起きた出来ごととして描いてます。そこでのハサウェイはクェス・パラヤを自分の手で撃ち殺してしまいました。つまり彼のトラウマは直接的な罪悪感です。
でも映画版は劇場版『逆襲のシャア』の続きとして作られています。劇場版でクェスを死なせたのはチェーン・アギであり、ハサウェイはクェスを救えず、逆上してチェーンの機体を撃ってしまいました。この違いは大きいです。
- 原作:クェスを自分の手で死なせた少年のその後
- 映画版:クェスを救えず、チェーンを殺し、アムロの戦いを見てしまった少年のその後
映画版のハサウェイは人を殺した罪悪感だけでなく「理想に届かなかった自分」「アムロのようになれなかった自分」への苛立ちと劣等感を抱えています。だからこそ、彼の行動はより複雑で、危ういものに見えるのです。
アリュゼウスは新商品用メカで終わらない
今作では新型MS「TX-ff104 アリュゼウス」が登場します。正直、最初はプラモデルを売るための追加機体だろうと思いました。ガンダム作品である以上、そういう大人の事情は付きまといますし。ファンとしても新製品は期待します。むしろ新型はもっと出してくれてもいい。
でも劇中でのアリュゼウスは目玉機体のわりに戦闘で長く活躍するわけではありません。かなりあっけなく撃墜されます。大きいのに弱い。
訓練用だから仕方ないですが、重要なのは大破したアリュゼウスの中から量産型νガンダムが出てくることです。ここは燃えました。これによってハサウェイの記憶は一気に13年前の『逆襲のシャア』へ引き戻されるわけです。
ハサウェイはνガンダムそっくりな機体を見て戦闘中にアムロを思い出し、背景にはあの「アクシズ落とし」の光景が広がります。
アリュゼウスは敵としての強さではなく、ハサウェイのトラウマの記憶をこじ開けるための鍵として物語上とても重要な役目を持っていました。単なるバンダイの販売戦略で終わらせなかったのは見事です。
新規映像のアムロとハサウェイの危うさ
幻影とはいえ新規映像でアムロ・レイが喋ったのは昔からのファンとして正直うれしかったです。
しかしアムロが登場することで、ハサウェイとの「格の違い」が残酷なほど浮き彫りになります。
アムロは一年戦争で民間人から兵士になり、自分の手でララァを撃ってしまい、戦後は連邦に冷遇されました。それでも腐らずに最後にはシャアの暴挙を止めるために命を懸け人類を見捨てなかった。
一方のハサウェイはどうでしょうか?ブライトの息子として守られ、罪に問われず、高等教育を受けることもできた。恵まれた環境にいたのに連邦への不満と自分の過去の傷をこじらせて「閣僚の暗殺」というテロリズムに走っている。
確かにハサウェイも辛かったでしょう。でも自分の傷を「正義」という綺麗事で隠して暴力を肯定している姿は、どうしても歪んで見えます。
ハサウェイはインテリお坊ちゃんにありがちな個人や社会への不満をこじらせ、暴力賛美に振り切ってしまった活動家になってしまいました。こういう活動家ってなまじ学があるので厄介です。暴力を正義だと思ってるからたちが悪い。
目的が正しそうに見えることと、やっている手段が正しいことは別問題です。ハサウェイの独善的な危なさを原作は映画は描こうとしていたし、その結果のあのラストでした。映画もその路線は外してないと思います。
周辺を彩るキャラクターとメカの妙
ケリア・デースの存在
映画版で存在感が増しているのがケリア・デースです。ケリアはハサウェイの元恋人でマフティーの連絡員です。
原作ではハサウェイの過去の女性という印象が強いですが、映画版では彼女の感情がより見えるようになっています。
ケリアは彼がどういう人物なのかどうしてマフティーに関わっているのかを知っています。少なくともギギよりは過去のハサウェイに近い人物です。
ハサウェイを支えたい気持ちもあるでしょう。マフティーの活動に関わる覚悟もあるでしょう。でも同時にハサウェイをこの道へ近づけてしまったことへの思いもあるように見えます。
でもギギはハサウェイの過去は知らないし後ろめたさもない。現在のハサウェイに興味を持って近づくだけ。
ケリアはハサウェイを理解しようとしますが、ギギは理解というより本能的にハサウェイの心に触れてしまう。
そのハサウェイはケリアに対しては誠実とは言い切れません。活動家の仲間としか思っていない。
でもギギには惹かれている。そのせいでクエスを思い出してしまうことにもなるのが皮肉です。
活動家仲間と、過去の傷を思い出させる存在。どちらをとってもハサウェイに救いはなさそうな感じはします。
メッサーM01型
メカ描写でのファンサービスとして、メッサーM01型(ガウマン機)の登場は嬉しかったですね。映画版のメッサーは小説の挿絵から大きくデザインが変わっていますが、このM01型は原作小説のイラストに近い雰囲気でまとめられています。
アリュゼウスが「ドラマを進めるための機体」だとしたら、メッサーM01型は「原作ファンへのサービス」。こういうスタッフの遊び心は素直に喜びたいところです。
アリュゼウスのデザインについて
個人的な好みを言わせてもらえば、アリュゼウスのデザインはあまり好きではありません。量産型νガンダムの要素が入っている設定は面白いし、HGのプラモデル(13,200円は高いですが!)としてのボリューム感は分かります。
でも見た目がごちゃつきすぎていて、兵器としてのまとまりに欠ける気がします。設定上は急造の実験機なので試作パーツを寄せ集めた塊で正解なのでしょう。
でもデザインとして劇中で格好よく見えたかと言われると、そこは別です。
それにミノフスキークラフトもないのにこの外観でペーネロペー並の高速飛行ができるというのが信じられない。もう少し説得力のある外観にならなかったのかと思ってしまいます。
ラストの変更:ハサウェイが素顔を見せる意味
今作のラストシーンには、原作からの変更点がありました。
原作小説ではΞガンダムでギギを迎えに来たハサウェイは、パイロットスーツのヘルメットをかぶったままです。マフティーとしての顔を保っています。
ところが映画ではハサウェイはヘルメットを脱ぎ、ギギに素顔を見せます。これと同時に、Ξガンダムも装甲が剥がれガンダムとしての顔を露出。この二つの演出が重なっています。
マフティーという記号の裏にある「ハサウェイ・ノア」という一人の男の素顔。ミノフスキー・フライトの怪物の中に隠されていた「ガンダム」の顔。その両方がギギの前で暴かれてしまいます。
それはハサウェイがマフティーとしての仮面を維持できなくなり、ハサウェイ・ノア個人としてギギに向き合ってしまったということ。
これは素顔になれたのは明るい兆候。このまま破滅に向かわずに踏みとどまるのではないかと。と捉えることもできますが。
一方ではさらに危うさに近づいたともいえます。つまり、ここから先はマフティー・ナビーユ・エリンという政治的な存在とハサウェイ・ノアという個人がさらに分けられない存在になる。ハサウェイ・ノアそのものがテロリストとしての道を突き進んでしまうのではないか?
その先にあるのは原作通りの破滅のルートに思えてしまうのです。
まとめ:第3部への伏線として何が残ったのか
第2部『キルケーの魔女』は派手な決戦でスッキリ終わる映画ではありませんでした。画面の暗さや説明の少なさにイライラした人がいるのも分かります。
でも第3部に向けてハサウェイが破滅するための外堀は今作で見事なまでに埋まったように思えます。
アムロの幻影によって自分の限界を突きつけられ、ケリアとギギの間で揺れて最後にはガンダムの素顔と共に自分の正体を晒してしまう。
ハサウェイの行動に納得できるか、それともただのテロリストとして冷ややかに見るかは人によって違うと思いますが。私はこの歪みと危うさを抱えた映画版のハサウェイが第3部でどんな終わりを迎えるのか、最後までしっかり見届けたいと思います。
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