映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の第1作目を観てきました。
期待よりかなり良かったです。正直、観る前はあまり期待していませんでした。
原作小説の『閃光のハサウェイ』は発表された当時から物議を醸した作品です。とくに主人公のハサウェイ・ノアが悲劇的な結末へ向かう話なので後味はよくありません。富野由悠季らしい小説として読むなら、あの割り切れなさも成立するのかもしれません。
でも劇場アニメとして映像化して楽しめるのか。そこにはかなり疑問がありました。
主人公はブライト・ノアの息子です。初代ガンダムから宇宙世紀を見てきた人間にとってブライトは特別な人物です。ホワイトベースの艦長として、アムロたちを戦場で指揮し、その後も宇宙世紀の節目に立ち会ってきました。その息子が反地球連邦政府組織マフティーの中心人物になる。
いいのかこれで?
そう思ってしまうんですよね。
でも、だからこそ見ないわけにもいきませんでした。
原作小説にあまり期待していなかった理由
『閃光のハサウェイ』は気持ちよく主人公を応援できる話ではありません。
ハサウェイは地球連邦政府の高官を暗殺する組織、マフティーの中心人物です。連邦政府の腐敗に怒っています。地球に残り続ける特権階級を問題にしているのは分かります。
でも、彼が選んだ方法は暗殺でした。
この時点で応援しづらい。しかも最後には悲劇的な結末が待ってます。
もちろん宇宙世紀のガンダムは昔から単純な勧善懲悪ではありませんでした。ジオンにも事情があり、連邦にも問題があり、主人公たちも正しいことだけをしてきたわけではありません。そこがガンダムの面白いところです。
それでもブライトの息子がこうなるのは、やはりきついです。
アムロとシャアの時代を見ていた少年が12年後にマフティーとして連邦に牙をむく。しかも、そこに爽快感はあまりない。原作にいい印象を持てなかった理由はそこでした。
映画版 閃光のハサウェイ は逆襲のシャアの続編
今回の映画版で大きかったのは世界線の変更です。
原作小説の『閃光のハサウェイ』は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』の続編として書かれました。
映画版『閃光のハサウェイ』は、映画『逆襲のシャア』の続編として作られています。
初代ガンダムから追っている宇宙世紀ファンにとって『逆襲のシャア』は大きな区切りです。アムロとシャアの戦いが終わり、ブライトはその時代を生き残りました。その流れの先にブライトの息子ハサウェイの物語がある。
だったら、観ないわけにはいきません。
ハサウェイを気持ちよく応援したいから観るというより、ブライトの息子がどこへ行くのかを見届けるために観る。そんな感覚でした。アムロ、シャア、ブライトの時代を見てきた者として、ハサウェイの最期も見届けてやろうじゃないか。そういう気持ちでスクリーンに向かったわけです。
MS戦の描き方はかなりよかった
この映画で一番良かったのはMS戦ですね。
戦闘シーンの数は多くはありません。前半は会話劇が中心ですし、モビルスーツが次々に出てきて戦う映画を期待している人には、物足りないかもしれません。
でも、MSが出てきたときの説得力はかなりありました。
過去のガンダムアニメではMSがかなりすばやく動く場面も多くありました。ビームサーベルで斬り合い、空中で姿勢を変え敵の攻撃をかわす。アニメとしては気持ちいいですし、それはそれでガンダムらしい見せ場です。
ところが『閃光のハサウェイ』のMSは動きに重量感があります。
20mを超える巨大ロボットが本当に現実にいたら、こう見えるかもしれない。そう思えるんですね。もちろんそれが本当にリアルかどうかはわかりませんが。そう思わせるだけの説得力はある。
機体が移動するだけで画面の中に大きな物体があると分かる。スラスターを噴かすと、周囲の建物や地面との距離感まで伝わってくる。
ここは最高でした。
とくにこの時代は宇宙世紀の中でもMSの大型化が目立つ時期です。量産型のメッサーでも頭頂高23m。グスタフ・カールでも22m。クスィーガンダムに至っては頭頂高26.0mもあります。
初代ガンダムが18m級だったことを考えると、かなり大きいです。
このサイズの兵器が市街地に現れたら、人間から見ればほとんど災害に近いでしょう。ビームが飛び、建物が壊れ、地上の人間は何が起きているのか分からないまま逃げるしかありません。
夜のダバオ市街地戦は、その怖さが出ていました。
ハサウェイたちが地上から見上げる視点になるとMS戦が怪獣映画のように見えます。上空で巨大な機体が戦い、ビームの光が走り、壊れた破片が落ちてくる。モビルスーツをかっこよく見せるだけでなく、兵器としての危険さもちゃんと見せていました。
この場面だけでも映画館で観る価値はあったと思います。
コクピットのモニター表現も兵器らしい
コクピットの描写もよかったです。
CGで表示されるモニター画面が、ただの未来的な飾りに見えません。パイロットが巨大兵器を操作している感じがあります。索敵、照準、周囲の確認、機体情報の読み取りといった情報が緻密に画面に表示され、本当に複雑な巨大兵器を操縦しているんだという感覚が伝わってきます。
ここは細かい部分ですが、かなり大事です。MSを巨大な兵器として見せるなら、操縦席もそれに合っていないと説得力が弱くなりますから。
パイロットが感覚だけでロボットを動かしているように見えると、せっかくの巨大感が薄れてしまう。
『閃光のハサウェイ』ではパイロットが複雑な機械を制御している感じが出ていました。こういう細かい描写は、やっぱりうれしいです。
前半は会話劇が多い。でも人間ドラマとしてはよくできている
一方で、話のテンポについては好みが分かれるところかもしれません。前半は会話劇が多いです。
ホテルの部屋でのやり取り、高級クラブでの会話、移動中の探り合い。正直、退屈だと感じる人がいてもおかしくないです。
でも、人間ドラマとしてはよくできていると思いました。
ハサウェイ、ギギ・アンダルシア、ケネス・スレッグ。この三人が出会うことで、物語は単なるマフティー対連邦軍の戦いでは済まなくなります。
ハサウェイは、自分の思想を抱えているし、ケネスは連邦軍の人間としてハサウェイに近づいていく。ギギはその鋭すぎる直感で二人の間に入り、どちらにも簡単には収まらない態度や言葉を投げかえ、二人を惑わしていきます。
ハサウェイは、自分が正しいと思っています。地球を守るため、特権階級の要人を暗殺する。それが必要なことだと考えているのでしょう。でも、この映画はハサウェイを正義の主人公として持ち上げません。そういう冷めた視線も大事だと思います。
ハサウェイは正義の主人公として描かれていない
ハサウェイは、マフティーのリーダーとして行動しています。
連邦政府の腐敗を正したいし、地球に残る特権階級を快く思っていません。言っていることの一部は分かります。
でも、やっていることは高官の暗殺。ただの犯罪者です。
とくに印象的なのが、タクシー運転手との会話ですね。
運転手は、マフティーは暇なのだろう、自分たちは今日を生きるだけで精一杯だという冷ややかなことを言います。
これが普通の市民のとらえ方なのでしょう。
ハサウェイは理想に燃えているものの、一般市民から見ればマフティーは生活の外で革命ごっこして遊んでる人たちに見える。連邦政府への不満はあっても、マフティーを自分たちの代表とは感じていない。
この冷ややかな視点が示されるので、劇中でもハサウェイは単純な英雄になりません。むしろテロリストの模倣犯を生み出し余計に事態を悪化しているのは皮肉です。
マフティーの作戦は本当に世界を変えられるのか
ここで根本的な疑問が出てきます。マフティーのやり方は世界を変えられるのでしょうか?
彼らの作戦は要人を暗殺して連邦を恐怖させること。でも作戦を行うなら何のためにして何を達成すればよしとするのか。
誰を倒せば、社会の制度やシステムがどう変わるのか。特権階級を地球からどう退かせるのか。
そういった道筋がないまま、要人を殺害しても代わり高官がまた同じ席に座るだけです。要人を殺したからと言って資源が増えるわけでも、経済が潤うわけでもない。
ハサウェイ自身、自分のやっていることが解決ではなく「ただの不満のはけ口」でしかないとどこかで自覚しているように見えます。それでも、止まれない。
むしろ、連邦軍に弾圧の口実を与える可能性もあります。
この観ていて釈然としない割り切れなさ矛盾は富野作品らしさだと思いますし、作り手の狙いなのでしょう。
なぜ彼はここまで変わったのか?映画版ハサウェイの分かりにくさ
ここで映画版のハサウェイを見て気になる点があります。それはハサウェイがなぜここまでマフティーに傾いているのかです。
小説版の流れなら、まだ分かります。
『ベルトーチカ・チルドレン』ではハサウェイはクエスを自分の手で討ってしまいます。思春期に自分が惹かれていた少女を自分で殺した。これはかなり決定的です。その経験がハサウェイの精神に深い傷を残して病んだ精神の治療に訪れたクリニックで思想を刷り込まれ、マフティーになっていく。この流れならハサウェイが歪んでしまう理由としてはわかります。
でも、映画版は違います。
映画『逆襲のシャア』のハサウェイはクエスを殺していません。チェーンがリ・ガズィでα・アジールを攻撃してクエスが戦死。その後、逆上したハサウェイがジェガンでライフルを乱射してチェーンのリ・ガズィに当ててしまう。結果としてチェーンが戦死する。
もちろんこれも辛い経験です。思春期の少年が戦場に出て人を死なせてしまった。しかも、その場にはクエスの死もあり、アムロとシャアの最後もある。普通に考えれば心に傷は残るでしょう。
ただし自分がクエスを殺したという小説版の決定的な罪悪感とは違います。
ここが、映画版ハサウェイの分かりにくいところです。映画版の流れでは、ハサウェイがマフティーになる理由がいまいち弱く見えます。
チェーンを撃ってしまった罪悪感や、クエスを救えなかった後悔。連邦政府への怒りにシャアの思想の影響。
それらが重なったとしても、なぜ連邦高官を暗殺する組織の中心人物になるのか。その理由は1作目だけではまだ見えていません。
ここはアムロの抱えた葛藤と比べても差があります。アムロは、ララァを自分の手で殺してしまいました。しかも、その相手はニュータイプとして心を通わせかけた存在です。だからアムロがその後もララァの存在を引きずるのは分かります。自分の手で失ったという事実があるからです。
なので映画版『閃光のハサウェイ』1作目は、人間ドラマとしてよくできている一方で、ハサウェイがここまで思想に傾いた理由はまだ説明不足に感じます。
もちろん第2部以降で描かれるのでしょう。そのときにどういう理由付けになるのかは興味があるところですね。
ラストのクスィーガンダム登場は1作目の締めとしてよかった
ラストのクスィーガンダム登場はかなりよかったです。
三部作の1作目なので、物語がここで完結しないことは分かっています。だから個人的にはこの終わり方で問題ありません。
前半でじっくりと人間関係を描き、ハサウェイの矛盾を見せ、溜めて溜めて、最後にようやく主役機であるクスィーガンダムを登場させる。このカ爽快感の持っていき方は見事でした。
クスィーガンダムは圧倒的な強さを見せつけてペーネロペーに勝利します。ここでマフティーはただの武装組織ではなく、連邦軍と本気で渡り合えるだけの強力な軍事力を持っていることが証明されます。
「これからハサウェイの本格的な戦いが始まる」と予感させる終わり方でしたね。
ただし、戦闘シーンは少し見づらい
映画の戦闘シーンはよかったです。でも、気になるところもあります。
戦闘シーンが暗い。
クスィーガンダムもペーネロペーもデザインがかなり複雑です。機体の形がゴテゴテしていて、そこが魅力でもあるのですが。
そこに夜戦の暗さ、空中戦の音速移動、さらにビームや爆発の激しいエフェクトが重なります。
その結果、初見だと「今、どっちがどこにいて、どういう位置関係で戦っているのか」が見ていてかなり分かりづらいです。
リアルな夜間戦闘の空気感を追求した結果なのは分かりますが、もうちょっと機体のシルエットや動きがはっきり分かる分かりやすい見せ場があってもよかったのでは、と思いました。
大人になった宇宙世紀ファンが見るガンダム
『閃光のハサウェイ』1作目は会話劇が多いし、主人公は暗殺を行う。市民からも必ずしも支持されていない。物語の先には、明るい結末が待っているとは言いにくいです。爽快感のあるロボットアニメとはいえません。
それでも、宇宙世紀のガンダムとしてはかなり見ごたえがありました。
初代ガンダムから逆襲のシャアまでを見た。アムロとシャアの時代が終わったことも知っている。ブライトがどんな人物かも知っている。そのうえで、ブライトの息子ハサウェイがこうなってしまった話を見るというのは。過去の理解がないと難しいかも。
これは若い頃にガンダムを見ていたファンが、年齢を重ねてから観る作品だと思います。
結論:1作目としてはかなりよかった。ただし人を選ぶ
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』1作目は、期待よりかなり良かったです。
映像と演出の質は高いです。
MS戦は少ないけれど、巨大兵器としての描き方はかなりよかった。
コクピットのモニター表現も兵器を操縦している感じがあって好きでした。
人間ドラマもよくできています。
ハサウェイを正義の主人公として持ち上げない。
タクシー運転手の言葉を通して、マフティーの理想が市民に届いていないことを見せる。
そこがよかったです。
ただし、誰にでもオススメできる映画ではありません。
MSアクションを目当てにすると、前半は長く感じるかもしれません。主人公の行動には、かなり疑問が残ります。ギギの存在も好みが分かれるでしょう。
MS戦も暗さとエフェクトの多さで見づらい部分があります。
それでも、1作目としては十分に成功していたと思います。
原作への苦手意識があったので観る前の期待値は低かったです。でも、映画版はガンダムアニメとしてよくできていました。初代ガンダムから『逆襲のシャア』まで見てきたファンが、大人になってから観る作品として、十分鑑賞に耐える仕上がりです。
ハサウェイの選択の先に、どんな結末が待っているのか。原作のあの結末を、映画版はどう描くのか。第2部、第3部が楽しみであり、同時に観るのが怖くもあります。
少なくとも、1作目を観た時点では、この三部作を最後まで見届けたいと思えましたね。


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