ゴジラ-1.0を観てきました。
結論からいうと、気になるところはかなりあります。でも映画としては楽しめました。普段から怪獣映画を観ている人だけではなく、むしろ普段怪獣映画をあまり観ない人にこそ見てほしい作品だと思います。
ゴジラというと、子どものころに見た怪獣映画の印象で止まっている人もいるかもしれません。巨大な怪獣が街を壊す映画でしょう、と思っている人もいるでしょう。でもゴジラ-1.0は、戦後を生きる人間の話をかなり前に出しています。怪獣映画に慣れていない人でも、敷島浩一と大石典子、そして明子の関係を追いながら見ることができます。
もちろん、手放しで褒めたい映画ではありません。人間ドラマのセリフや演出は、正直かなり臭いです。敷島浩一の苦しみも、分かりやすく出しすぎていて、少し同じ演技が繰り返されているように見えました。大石典子の最後の扱いも、いくらなんでも無理があるでしょうと思いました。
さらに一番引っかかったのは、終盤の民間主導によるゴジラ退治作戦です。ゴジラが民間人の知恵と勇気で倒されるという展開は、正直ガッカリしました。その程度の相手だったのか、と思えてしまったんですね。ゴジラの名前を使った、ただの巨大怪獣に見えてしまう瞬間がありました。
それでも、映画として楽しめたのも確かです。戦後の銀座をゴジラが壊していく場面は見応えがありました。重巡洋艦高雄、駆逐艦雪風、震電といったミリタリー要素も楽しいです。最後にゴジラが再生する描写もあり、完全に人間が勝って終わり、という形にはしていません。
不満はある。でも見てよかった。
個人的には、そういう映画でした。
戦後の銀座を壊すゴジラの画面作りはさすが
まず画面作りはよかったです。
戦後の東京、とくに銀座の再現はかなり見応えがありました。路面電車、建物、人々の服装、街の密度。焼け跡から少しずつ復興しようとしている都市の感じが、映像の中に出ています。
そこにゴジラが現れるのがいいんですよね。
現代の高層ビル街にゴジラが出るのとは違います。戦後の銀座は、まだ復興の途中にある街です。人々はようやく生活を立て直そうとしている。その場所にゴジラが踏み込んでくるから破壊されるものがただの建物ではなく、人々がやっと取り戻しかけた暮らしに見えるわけです。
ゴジラが建物の間に現れると、街の中で人間がどれほど小さい存在なのかが伝わります。足元には逃げる人々がいて、建物の高さとゴジラの体の大きさを比べることで、画面の中の距離感も分かります。列車がつかまれる場面も単に乗り物が壊されるだけではなく、人間の生活の線をゴジラが片手で断ち切るように見えました。
熱線の場面も派手です。街が一瞬で吹き飛び、そこまで積み上げてきた戦後の生活感がまとめて失われる。ここは怪獣映画としてかなりうまいと思いました。巨大な生物が人間の都市に入ってきたら、人間の側は何もできない。そういう危険は映像としてよく伝わります。
恐いが初代ゴジラの不気味さとは違う
ゴジラ-1.0のゴジラは人類の味方ではありませんし、子どものヒーローでもありません。ただ、怖かったかと言われると、個人的にはそこまで怖いとは思いませんでした。
確かに危険です。あの場にいたら助からないと思います。でもそれは強くて大きな生物が街に現れたときの危険性なんですね。ゴジラが巨大な肉体を持ち、人間の街を壊していく恐さはあります。けれども、初代ゴジラが持っていた不気味さとは違うと感じました。
初代ゴジラには戦争の記憶がまとわりついていました。空襲、焼け跡、原爆、水爆実験、死者の記憶。そういうものが、まだ作り手にも観客にも近かった時代に生まれた映画です。だから初代ゴジラはただの巨大な生き物に見えません。
あのゴジラには戦争で死んだ人たちの記憶が形を持って歩いているような感覚があります。人間が作ってしまった破滅が怪獣になって戻ってきたようにも見えます。あの不気味さは現代の映像技術だけでは作れないと思います。
ゴジラ-1.0のゴジラは、もっと生物としての実在感が強いです。海に潜み、熱線という圧倒的な武器が加わるので近づけば死ぬ巨大生物としての迫力があります。これはこれでよくできています。でも初代のような怨念めいた怖さとは違うんですね。
もちろん戦争を知る世代が作ったゴジラと、現代のスタッフが作るゴジラは同じにはなりません。同じにするのは不可能だと思います。
大事なのは、映画として面白いかどうかです。
その意味では、ゴジラ-1.0は面白いし現代の日本映画としてよくできていました。
日本映画でもここまでできると見せてくれた
この映画を見て強く感じたのは、日本映画でもここまでできるのかという驚きです。
ハリウッドの怪獣映画のように莫大な予算を使える環境ではなかったはずです。それでも戦後の都市、ゴジラの破壊、海上作戦、軍艦、震電まで見せてくれました。これはすごいです。
特にゴジラの巨大感はよく出ていました。建物とゴジラの高さを画面の中で比べられるので、観客は自然に大きさを理解できます。人間が逃げる姿も、ただの群衆ではなく、ゴジラの体の大きさを実感させる要素になっています。足元で人間が逃げているからこそ、ゴジラの一歩がどれほど危険なのかが分かるわけです。
怪獣映画では、派手に壊せばいいというものでもありません。どこに人がいて、どの建物が壊れ、ゴジラがどの方向から迫っているのか。その関係が分からないと破壊映像だけが続いてしまいます。ゴジラ-1.0は、そのあたりをかなり丁寧に作っていたと思います。
平成ゴジラのアトラクションで物を壊してる感じのゴジラとは違う恐さはあります。
日本映画の限られた条件の中で、ここまでゴジラを見せた。その点は素直に評価したいです。
重巡高雄と駆逐艦雪風が出るだけで楽しい
個人的にうれしかったのは、重巡洋艦高雄が出てきたことです。
戦後の日本に旧海軍の艦が残っていて、それをゴジラ迎撃に使う。設定としてはかなり映画的です。でも、絵としては強いです。高雄がゴジラに向かって主砲を撃ち、それでも止めきれず、最後は容赦なく破壊される。この流れは怪獣映画としてよかったと思います。
高雄がただのやられ役に見えないところもいいんですよね。重巡洋艦としての存在感があり、実際に攻撃も加えます。だからこそ、それでもゴジラを止められないという結果に意味が出ます。小さな船だけがやられるよりも、重巡が本気で戦って、それでも破壊される方がゴジラの強さははっきり伝わります。
駆逐艦雪風が出るのも楽しいです。雪風は戦争を生き残った艦として有名です。その雪風が戦後にもう一度、人を生かすための作戦に関わる。ここは映画のテーマにも合っています。
戦争のために作られた艦が今度は人を生きて帰らせるために使われる。これはかなり映画的な使い方ですが、嫌いではありません。ミリタリーマニアへのサービスとはいえ作品のテーマともつながっています。
震電は飛ぶだけで価値がある
そして震電。
これは正直、出来過ぎです。どこに置いていたのか、本当に飛べる状態だったのか、知り合いに都合よく整備できる人がいるし、部品はどうしたのか?そういう疑問はいくらでも出てきます。
でも映画としては分かります。幻の局地戦闘機が戦後の日本でゴジラに向かって飛ぶ。これはロマンがありますね。
震電は独特な形をしています。前翼があり、プロペラが後ろにある。普通の戦闘機とはシルエットがまったく違います。その機体がリアルなCGで空を飛び、ゴジラに向かっていく。これだけでかなり楽しいんですね。
観客が見たいものを分かっている選択ではないでしょうか。
敷島が震電に乗ることも、彼の過去とつながっています。特攻で死ねなかった男が今度はゴジラに向かって飛ぶ。しかもそれを、ただの自爆にしない。この仕掛けは、この映画の大きな見せ場でした。
人間ドラマは分かりやすい。でもセリフと演出は臭い
ゴジラ-1.0は、人間ドラマをかなり重視しています。
敷島浩一の罪悪感、典子と明子との暮らし、近所の人たちとの関係、戦後を生きる人々の助け合い。こうした要素を前面に出して、ただゴジラが暴れる映画にはしていません。
作り手が普段怪獣映画を観ない人にも見てほしいと考えたのは分かります。戦後を生きる人間の話にすることで、ゴジラ映画を普段観ない観客にも届く作品にしたかったのでしょう。大人が観られるゴジラ映画にしたいという意気込みも分かります。
でも、セリフや演出はかなり臭いです。
敷島は苦しんでいて、典子は健気で、明子は家族の象徴として置かれています。近所の人たちは温かく、戦後の人々は助け合って生きている。どの人物も物語上の役割は分かります。でも、その役割が見えすぎる場面があるんですよね。
もちろん分かりやすいです。だから多くの観客に届いたのだと思います。現代のエンタメ作品としてはこれでいいのでしょう。戦後の人々の生き方を主題にした映画ではありませんから、変にリアルにする必要もないし、戦後という記号が揃っていればいいのだと思います。
神木隆之介の敷島浩一は少し難しかったかもしれない
敷島浩一を演じた神木隆之介さんについても、少し難しかったのではないかと思いました。
神木さんは同じ時期に放送されていた朝ドラの「らんまん」ではとてもよかったです。万太郎のように、好きなものにまっすぐ向かい、周囲を振り回しながらも憎めない人物はよく合っていました。神木さんの柔らかさや少年性が、役にうまくはまっていたと思います。
でも敷島浩一は、かなり違う人物です。戦争から逃げた罪悪感、大戸島で整備兵たちを死なせた記憶、特攻から帰ってきた自分への嫌悪、典子や明子との暮らしを受け取れない弱さ。そういうものを抱えた人物です。
この役を自然に見せるには、叫ぶ演技よりも、黙っているときの表情や体の反応が大事になると思います。言葉にしないまま、戦争が敷島の中に残っていることが伝わる必要があります。
でも映画では、敷島が苦しんでいることをかなりはっきり出します。顔を歪め、声を荒げ、感情を言葉にする場面が続くので、少し同じ表現が続いているように見えてしまいました。
これは俳優だけの問題ではないと思います。脚本と演出が敷島の苦しみを観客に分かりやすく伝える方向に寄せています。そのため演技もかなり分かりやすくなっている。結果として、暗い過去を背負ってもがく人物を、神木さんの演技だけで自然に見せるには難しかったのかもしれません。
浜辺美波の大石典子はよかった。でも生存は無理がある
一方で、浜辺美波さんの大石典子はよかったと思います。
典子は焼け跡の東京で明子を抱えて生きている女性です。強く描きすぎると嘘っぽくなりますし、ただ守られるだけの人物にしても弱い。その点、浜辺さんは生活を作ろうとする明るさと、無理をしている感じの両方を出していました。
敷島との関係も、恋愛だけには見えませんでした。戦後の混乱の中で、一緒に暮らしを作っていく相手として見える。ここはよかったです。だからこそ銀座で典子が巻き込まれる場面はかなり衝撃的です。
ただ、最後の生存は無理があります。
あの爆発でどうやって助かったのでしょうか。あの距離で、あの規模の爆発を受けて包帯を巻いて病院で寝ている。これはさすがに信じにくいです。
もちろん、この場面で典子が退場するには早すぎるとも思いました。このまま終わらないだろうという予感もありました。でも最後に普通に病院で寝ている形で出てきたときは、一気に冷めました。
助かるなら、助かるだけの余地を画面上で表現してほしかったです。
あの描写だと退場したと受け取る方が自然です。だから最後の生存確認が感動よりもご都合主義に見えてしまいました。
ただし、首元の黒い痕は気になります。ゴジラの影響が典子に残っているのかもしれません。実は死んでいてもおかしくないけど、ゴジラ細胞のお陰で再生しているとか。
それを考えると続編への種としては面白いです。
民間主導のゴジラ退治作戦はかなり無茶がある
この映画で一番引っかかったのは、民間主導のゴジラ退治作戦です。
狙いは分かります。国家に命令されて死ぬ話にしたくなかったのでしょう。戦争で命令に従った人たちが今度は自分たちの意思で生きるために戦う。敷島の物語としても、特攻のやり直しにしないためには自分で選ぶ形が必要だったのだと思います。
それは分かります。
でも、相手はゴジラですよ。
銀座を壊して熱線で街を吹き飛ばし、重巡高雄を破壊する存在です。その相手に対して、民間人が船を集めて作戦を実行するなんて。
船の提供はあるけど、GHQも政府も表立って関わらない。
これはかなり変な筋書きです。
戦後日本は占領下です。大型船を動かして旧軍関係者が集まり、爆薬や兵器に近いものを扱って海上で大規模な作戦を行う。これをGHQが横で見ているだけなのでしょうか?政府も責任を取らずに民間に任せるのでしょうか。
いくら映画でも、ここは理解に苦しみます。
劇中ではアメリカ側がソ連を刺激したくないという説明があります。その理由自体は分かりますが、それならなおさらGHQが管理するはずです。表立って軍事行動をしないとしても、完全に民間の作戦に任せるのは無理があります。
民間人の心意気でゴジラに立ち向かう。誰も死なせず、みんなで生きて帰る。この方向は分かります。でもゴジラ退治として見ると、かなり白けました。人間ドラマをきれいにまとめるために、ゴジラが矮小化されているいるように感じました。
民間人の知恵と勇気で倒せるならゴジラの意味はない
結局、ゴジラは民間人の知恵と勇気で倒されます。
ここは正直ガッカリしました。その程度の相手だったのか、と思ってしまったんですね。
作戦の段取りは分かりやすいです。ゴジラを海に誘導し、沈めて水圧を利用し、さらに浮上させる。震電で誘導し、船が協力する。実際にできるかどうかはさておき、まあ当時の技術でできる範囲の作戦でしょう。
でも、そんな作戦で倒せてしまうからこそ、ゴジラの存在が小さく見えるんですね。
ゴジラは人間の通常の知恵や兵器ではどうにもならない存在であってほしい。特に戦後を舞台にするなら、ただの巨大生物では足りません。戦争の記憶、核の恐怖、人間が作ってしまった破滅。そういうものが背後にある存在として出てきてほしい。
ところが終盤のゴジラは攻略可能な巨大生物に見えてしまいます。ゴジラの姿をしたただの怪獣、あるいは恐竜の生き残りに放射能の力が加わった相手のように見える瞬間がありました。
ここが惜しいです。
ゴジラを倒すなら、もっと嫌な余韻がほしい。初代ゴジラにはオキシジェン・デストロイヤーがありました。ゴジラを倒すために人間はさらに危険なものを使うしかない。倒したけれど、気持ちよく終われない。そこにゴジラという存在の大きさがありました。
ゴジラ-1.0は、人間ドラマを重視する方向に寄せています。敷島は死なず、仲間も帰り、典子も生きていて、明子も待っています。人々に救いを残す終わり方です。
でもそのために、ゴジラが人間賛歌の犠牲者にされてしまったようにも感じました。日本映画の宝であるゴジラが、きれいごとのヒューマニズムの踏み台にされたように見えたのです。
ここはかなり不満でした。
それでもラストの再生はさすがゴジラだった
ただし、最後の再生描写はよかったです。
民間人の作戦でゴジラを倒し、みんなで生きて帰ったという形だけで終わっていたら、幻滅したと思います。でも最後に、ゴジラは再生しています。
倒したように見えた。でも実は倒せていない。人間の作戦は一時的に成功したかもしれませんが、ゴジラそのものは消えていません。
ここはさすがゴジラでした。
人間の常識では終わらない。人間が勝ったと思っても、ゴジラはまだ残っている。ここを入れたことで、なんとかゴジラ映画としての余韻が戻ってきました。
スタッフも、ここは分かっていたのだと思います。
完全に人間の知恵と勇気の勝利で終わらせたら、ゴジラとしては弱すぎます。だから再生を入れた。人間の作戦で処理できる相手では終わらせなかったわけです。
このラストがあるので、次回作には期待できます。
次は、人間の作戦や美談だけでは届かないゴジラを見せてほしいです。人間が勝ったと思っても、その勝利が本当に勝利だったのか分からない。そういうゴジラが見たいですね。
普段怪獣映画を観ない人にこそ見てほしい
ここまで不満もかなり書きました。でも、ゴジラ-1.0は普段怪獣映画を観ない人にこそ見てほしい映画です。
人間ドラマが分かりやすく、戦後の世界も映像として見やすいです。ゴジラの破壊には迫力があり、敷島、典子、明子の関係も分かりやすい。映画としての入口が広いんですね。
ゴジラ映画に詳しくない人でも置いていかれにくいと思います。過去作を全部知らなくても、戦後を生きる人たちの話として見られます。ゴジラが現れたときの危険さも画面で分かります。
ゴジラって怪獣が街を壊す映画でしょう、と思っている人には意外と人間ドラマが見ごたえのある映画として映るかもしれません。そこがこの映画の強みです。
一方で、マニアックな怪獣映画好きには物足りない部分もあると思います。ゴジラの不気味さ、人間の手に負えない感じ、倒したあとにも嫌なものが残る感覚。そういうものを期待すると終盤の民間作戦には引っかかるでしょう。
でも、万人に勧めやすい映画なのは確かです。


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